HC7 ブログ

サウジアラビア在住。いろいろあることを、つれづれと書きます。

異文化への順応と、その理解を手助けする”形”について

今日はランチで同じコンパウンドに住むアメリカ人二人と日本語の名前がついた中国日本料理店(としか言いようがない)に行った。リヤドという場所には日本人は数百人のみ、よっていわゆる正統派の日本食が食べられるレストランは存在しない。少なくとも私は知らない。よって日本語の名前- 今日行った店はOkashiという名前だったが- がついた店に行くと大体がアジアンちっくな、またはアメリカメインの欧州テイストが混じったFusitonジャパニーズ料理を食べることになる。これはことさらに”日本食”というものを期待して行くのでなければ、あくまでもFusion和食としてはそれなりに食べれるものであることも多い。今日行った店はどちらかというとファーストフード寄りの店であったが、味は値段にしてはまあまあだった。

 食事をしたアメリカ人二人はどちらもネイビー関連の仕事をしていて、政府が絡むIT案件を担当しているようだ。二人とも日本に住んだことがあり、一方は日本人と結婚していることもあり、日本に対して好印象を持っていることが会話の節々から読み取れた。私はこういうときに良く思うのだが、住めば都、というか、実際にそこに暮らしたことのある人が、その国のことを悪く言う例をあまり知らない。これは旅行といった短期間の経験ではなく少なくとも数か月を超える長期滞在での場合である。私が今住んでいるサウジアラビアという国は、お酒が飲めないし、映画も無いし、一日5回のお祈りでお店はその間完全に閉店するし、女性は外に出るときにはアバヤと呼ばれる民族衣装を着なければならない。そういった制約が無い国の人からは考えられないような環境での生活になるわけだが、不思議なもので暮らしたことのある人と話したときに、悪く言う人はあまりいない。これは慣れの問題なのか、それとも長く暮らすことにより辛さより楽しさを見つけたり感じたりする傾向が人間にあるのか、はたまたその両方か。人間というのは面白いなあ、と思う。

 今日会ったアメリカ人も、この国の文化や歴史に興味を持っていて、それこそがその国に自分を順応させていくための大事な要素であることを理解しているようだった。私は手始めに、サウジアラビアの男性用民族衣装(トーブ)を着てみることを彼に提案してみた。昔どこかのブログにも同じような文章を書いたが、”恰好から入る”ことはその恰好が内包する文化や精神性を理解する非常に有効な方法であると私は考えている。儀式・式典も似たような意味合いを持っている。

 ”分からなくても”、”形から”、入るのである。